六面揃えたら天才

伝えたいことが生まれたら書くんじゃないかな

俺は裏方...なのか...?

はじめの挨拶

こんにちは。文を使う中島です。
今回の内容は「貴様のようなぺーぺーが語るな」って言われても「すみませんでした」としか言えないような話題なので、雑なですます調で謙虚さを演出して行きます。

 

7月下旬から8月上旬に掛けて、自分の周りでイベントごとが著しく増加して、大変ありがたいことに中島需要(告知映像画像制作、配信素材制作、撮影、編集などなど)が爆発的に上がって、私に信頼を置いて依頼をしてくれた素敵な人達全員の期待に応えるべく、全力で走っていましたが結構、精神体力ともに追い込まれました。

 

結果から言うとなんとか無事すべての依頼をクリア出来て今は元気いっぱいハッピー野郎な訳ですが、かなり学びの多い1ケ月間だったので「こんなことを感じた時期があった」ということを未来の自分のために備忘録的に残しつつ、それを誰かしらに共有したくなった時用に自己啓発ブログチックにしておこうかなというのが今回の記事の目的です。

 

ではメインコンテンツ入ります:D

 

俺は裏方...なのか...?

 

裏方イメージ

今年の6月辺りから、フリーランスのクリエイターとして撮影や制作だけでなく、フィジカルなイベント運営の仕事をしてきて「クリエイター」の概念の認識が最近変わり始めました。 

 

大会を含むイベント運営というものには多くの人が関わります。
そしてイベントを支えるすべての人間は「運営側」と「演者側」の2つに種類分けすることが出来ます。ここではスポンサー的な難しいポジションは省いて単純に考えていきます。

 

同業者やイベント運営をしたことがある人ならすぐにピンと来るとは思いますが、その分野をまだあまりよく知らない人のためにも分かりやすい用に文字にします。

 

大会主催者、競技運営、配信技術者、カメラマン、会場スタッフは「運営側」。
キャスター、司会者、ゲスト、競技プレイヤー、は「演者側」。

 

超簡単に単純に考えるとするならば、この「運営側」と「演者側」が上手い事やってハッピーな時間や感動的な時間、視聴者、参加者が求めている時間を演出、放送できると「イベントは目標達成!大成功!」ということになります。

 

ここまでは、誰でも納得できる動かぬ事実を陳列しているだけな訳ですが、

 

イベントや配信を盛り上げる映像や静止画を制作している「クリエイター」という職業の人は「運営側」と「演者側」一体どちらに属するんでしょうか?

 

私がたどり着いた結論を先に言うと、「どうやら運営と演者のちょうど中間くらいに居る存在である。」という風に落ち着きました。この結論に至った経緯を記していきます。(PREP法っていうどんな舐めた内容でもそれっぽくわかりやすく聞こえる気がすると噂の手法)

 

クリエイターって言葉がかなり広義な言葉であり、最近はYoutuberやストリーマーの総称としても使われ始めてきていますが、この記事では、特にイベント会場のでっかい画面や配信に載せる映像、静止画を仕事で作ってる人たちのこととやんわり定義します。
考え方によっては、「この場面で演者同士がこういう掛け合いをやったらお客さん喜ぶだろうな~」って考えながら台本を作っている人たちもれっきとしたクリエイターと呼べるかもしれません。

 

そのクリエイターっていう職業の人たちはどうやら人望や過去の実績を基にイベント運営の主軸部分の人間(制作会社など)から依頼が来るようです。

特に「過去の実績」というものが、クリエイターにとっては常に更新される履歴書みたいなもので、例えば有名人を多く集めた大規模集客イベントの制作実績というものは、映像写真デザイン領域をよく知らない人からすると成果物を見ずしても「大規模なイベントで数万人に見せても恥じないクオリティの制作をしてくれるだろう」という発想に至らせてしまうくらいに強みがあるモノです。

 

でもクリエイターの名前がクライアントや同業者以外の視聴者や参加者に認知されることはそうそうありません。仮にイベントのために作った映像や静止画の右下に毎度「created by niko2」や「制作:中島勘太」って書かれていたらまあ最高に鬱陶しくて本題が頭に入ってこないという事件が起こりますね。

 

そう考えると我々クリエイターが今後、それまで関わったことがないような会社や個人から依頼をもらう機会を得るためには「今回大変光栄ながらこちらを制作させていただきました。」というような投稿をすることが一番簡単で効力があるのではないかと考えられます。


つまるところ、クリエイターもその領域、界隈においての知名度勝負にならざるを得ないのでしょう。

 

逆にこのSNSでアピールしない場合というのを考えると「この告知動画は誰が作ったんだろう」「この配信の蓋絵のデザインは誰が作ったんだろう」「このVtuberのイラストは誰が書いたんだろう」と言及する人間は同業者又はそういうクリエイターを必要としているイベント運営の人間くらいで、視聴者と参加者にとっては割とどうでもいい部分なのが現実でしょう。そういう側面を見るとやはり「裏方」感は否めません。

そしてこの部分が私も以前まで持っていたクリエイターに対する「裏方っぽいイメージ」に違いないでしょう。

 

ではここから、最近私が仕事をしてきて感じた「クリエイターって実は演者なんじゃないかぁ!?説」について私自身が映像領域がメインの人なので映像制作を例に書いていきます。

 

しかしながら、開幕ちょいっと話を脱線させます。

 

コミュニティのEditor

私が映像編集に興味を持ったきっかけはCall of dutyというFPSのスーパープレイをかっこよく編集したもの(ゲーマーが標準的にMontageやフラグムービーと呼ぶアレ)をYoutubeで見たことです。
そのMontageというものは、編集者の自己顕示欲と承認欲求で成り立っています。これは嘘ではありません。

 

大げさに言うと我々は10秒のパートに給料が発生しないにも関わらず、10時間掛けたりするような人間たちです。友好関係的に断りづらい空気の中で「依頼」という言葉を使われ、お金を貰ってビジネス感を醸し出すも実際には時給換算してしまうと1時間300円行けるかどうかみたいなものです。

 

それゆえに自分が他のやりたいことをやる時間を割いてまで制作した動画というものは、自分にとって我が子のように手を掛けた大切なもので、たくさんの人に見てほしい。あわよくば褒められたい。と思うのが自然な人間の思考です。現代の「評価」というものは直接的な賛辞の言葉ではなく、RTやいいねの数といった間接的なモノになっています。世の中の非営利なクリエイターのほぼ全てが同じで、これは人間の文明が生まれた頃から変わらないものでしょう。

 

ゲームのMontage編集者のモチベーションはお金ではなく知名度や向上心であることが多いように思います。その知名度や向上心の先に何があるのかは人に寄りますが、他人から褒められたり自分で見返して心地の良い映像が作れるようになっていく成長過程が楽しいというような面では「映像制作・Edit」は今後の人生でも応用が効く、極める価値のある素晴らしい趣味だと今までの経験で断言できます。

自分の編集力が評価されて、自分が知らない個人や団体から依頼が来るのはインセンティブがどうであろうと素直に嬉しいものです。

 

ここまでちょっと話を脱線させて趣味レベルにおける映像制作について、ゲームのEditorを例として上げました。ではここからは、仕事レベルにおける映像制作の話をしていきます。

 

映像存在理由や仕事をして気付いたこと

仕事として依頼される映像にどういうものがあるかというと、

 

CM、イベント告知動画、オープニング、当日エンドロール、配信トランジションなどなど他にもたくさんありますが、この記事ではイベント告知動画とオープニングの2つで考えていきます。

 

ではまずイベント告知動画のほうから。

 

イベント告知動画の存在理由について最初に考えてみます。

 

① イベントの包括的な概要を1度に詰め込める媒体である。
② 音と映像でインパクトがあり、シーンが人の記憶に残りやすい。
③ ①②の効果で拡散しやすく、話題性がある。

 

などなどが考えられます。が、そもそもこんなことを考えることよりも、感覚的に画像だけの告知よりも映像の告知のほうがインパクトがあって良いのは誰の目にも明らかでしょう。

 

運営の主体の人間が告知動画は明らかに大事ということを理解したとなると、次に議題にあがるのが「ではそれを誰に作らせるのか」ということになってきます。

企画書を読み込ませて、イベントの概要をインパクトを持たせて伝えられる主催者のイメージに沿った映像を作ってくれる人材を見つける必要がありますね。

 

告知動画の場合は、ゴリゴリのモーショングラフィックサーや3Dアニメーションアーティストの需要はそれほどありません。オリジナリティの強い動画は主催者側のイメージと方向性が一致していないと、本来の告知動画の意図がぶれてしまい、高いお金を払って結局何が伝えたいのか分からない動画が完成してしまい映像クリエイターだけが自己満足できるという事故が起こる可能性があります。

 

素材と注意書きと流れイメージを渡して「あとはよろしくぅ!修正あったら言わせてもらうぜ~」というようなスタイルがこれまでの経験だと一般的です。
もちろんこのシステムに全く不満はないです。

 

私が感じた違和感はここの部分ではなく、実際にその自分が作った動画が全世界に向けて公開された時のことです。

 

依頼主側からディレクションや修正をどれだけ受けていたとしても実際に作業をしたのは自分自身であり、自分が作った映像を多くの人が目にして拡散されているという揺るがぬ事実があります。

 

冷静に考えると映像自体が評価されているというよりも演者や企画自体が評価されて拡散されているという説の方が有力であり、その告知動画を作る人材というのは一定のレベルを超えてる人なら誰でもOKというのも、ひとつの事実なのかもしれません。

 

それを加味してもゲームEditorの話で先述した通り、自分が作った映像というものが手間暇を掛けて育て上げた我が子のような存在と仮定するならば、上記の事実というものは、クリエイターが最も輝く瞬間であり、集客への貢献という観点からもかなりの責任がある仕事だと感じます。

 

こういったような側面で考えると映像を作る人間っていうのは部外者から見た立場的には「運営側」という感じはするが、実際にクリエイターは公開されるまでの緊張感などもあり「演者側」と同じような感覚で仕事をしていることがあります。

 

良くも悪くも私の作る映像というものは「見易い」「分かり易い」ということを「中島が作る映像」としていつも制作をしておりますので、特別独創的だったり、オリジナリティのある映像を作るような経験がなかったというのも、こういう風に違和感を感じる機会がこれまでなかった原因なのかもしれません。


では次はもっと分かり易く「演者側」感の強い「オープニング」の映像制作の感覚を語ります。

 

オープニングというものはイベント会場で開演を待っているお客さんや、配信視聴者の気持ちを「うぉおおきたきたきたああああ遂に始まるぞおおおおお」という気持ちにさせるためだけに存在しているものです。

 

もうこれだけ言ったら察しの良い皆さんなら分かってしまうと思いますが、仮に1分間のオープニングだとしたら、その1分間は演者視聴者全員がその映像1点に集中し、言うまでもなくクリエイターの一番の見せ場の時間となります。告知動画の方ではそれほど需要のなかった、オリジナリティを醸し出す、見る人の脳にインパクトを与えられるような映像を作れるクリエイターの需要が上がります。

 

こういった「人の心を揺さぶるための映像」を作る人間の気持ちの持ち様は限りなく「演者側」に近い存在であると、少ない経験ながら強く感じました。

 

UVERworldのライブの映像を見てみると分かりやすいと思います。

youtu.be


TAKUYA∞さんがパワフルに歌唱している後ろには常に歌詞の映像が流れています。ライブ会場では熱唱しているTAKUYA∞さん本人以上に歌詞映像の方が注目される時間が多いように思えます。それもそのはずで、会場は広くTAKUYA∞さんは1人。

 

私は兄に無理やり連れて来られたUVERworldのライブで知りもしない曲を聞いてその歌詞に共感し感動して涙を流していました。
私が感動した理由は、歌を耳で聞くだけでなく、明朝体テキストで目からも歌詞を流し込まれることによって耳と目で得られる情報が歌詞とリズムに占領され、脳に強く語り掛けられたからでしょう。

 

広いライブ会場においては観客が本来見に来ているであろうアーティスト本人はステージ正面5メートルくらいの席でないと、とても小さく見え、表情の認識も厳しいのが現実であると分かり切っているにも関わらず、数千円数万円を払ってでも飛行機新幹線を使ってでも、「ライブに来たい!」と思わせる要因の正体こそが映像、音響、光なのは間違いないです。照明や音響、配信技術者は本番中常に緊張感をもって仕事をこなしており、言わば彼らにとっては、アーティスト同様本番中はずっと彼らのショータイムです。

 

ただ映像素材制作の人は特殊です。
当日エンドロール的な要素を除けば、全て前日までに入念に準備してきたものが、現場で配信放送技術者によって再生されるものであり、配信ソフトが事故らない限りはなんの心配もありません。なんなら現場に居なくても大丈夫です。

 

しがしながら、その本番前までに完成させた知識と労力の結晶である映像が大勢の前で公開される瞬間があるわけです。思い入れがあったり、小ネタを挟んだりしたらその瞬間が流れるまで、見てくれる人の反応が想定通りかスベるかは分からないわけですから、やはり緊張するはずです。「お笑い芸人ってこういう気持ちでネタ見せしてんのかな...」という気持ちに。

 

配信技術者や照明、音響技術者、カメラマンももちろんイベント中は常に緊張感の中で戦っているのは重々分かっていますが、会場、配信で流れる準備された映像はそれ以上に大衆にフォーカスされる存在であり、イベントを盛り上げる「演出」という言葉以上の重要性を持っていることもあります。そのクオリティがイベントのクオリティを大きく左右するといっても本当に過言ではありません。

 

逆をいうとイベントや団体のクオリティ、評価を上げたいのであれば、まずは部外者に見える部分のデザインなどのクリエイティブ面を改善すると、仕事に対する丁寧さを感じられや信頼性があがり、評価が上がります。これは太古から言われています。

 

ちょっと上記3行だけ話がそれましたが、話を戻しつつまとめると、イベントで流れる映像制作をして「お客さんがこちらの想定通り反応してくれるかどうか、流れるまで分からないこの感覚って芸人と同じじゃん。やってること演者じゃね?」という考え方を思い出しました。思い出したんです。忘れていたのです。今までも同じ経験をずっとしてきたのはずなのに。私自身が気付かぬうちに「それっぽいクオリティの映像を作るだけの自画を失った機械」になっていたことに気付かされたような気がして、反省する機会になりました。

 

もちろん仕事としてやる映像制作というものはあくまで依頼者の持っているイメージに寄せるべきものであって、こちらの自我をむき出しにしてOKな「好きにお前のセンスで作っちまってくれよ!」って言われる機会は中々ないものです。そう言ってもらえる場合というのは依頼者の完成イメージとクリエイターの普段作る映像の方向性が凄まじい精度で合致した時か、依頼者が考えることを放棄している場合のみです。

 

ですが「依頼主が完成イメージを持っているかどうか」という議論はここでは重要ではなく「自分の作った映像に全員が注目する時間がイベント内に設けられている」という認識を持つことによって、たとえその映像のクオリティ的に自分以外の人が作れるとしても、裏方的な感覚ではなく、自分に任せてくれたという事実に対して「私を起用してくれてありがとう」という気持ちで演者同様に会場や配信を盛り上げられるようにもっと工夫しなくてはならないというような姿勢で臨むべきことであり、その意識を持つということが、仕事のモチベーションにも責任感にもクオリティにも大きく関わってくると再認識できた1ヶ月でした。

 

「映像は裏方的な運営側な要素も持ちつつ、演者のようにステージに立つ緊張感の要素もある中間的な存在である」という答えに行きつきました。

 

結論まとめ

 

ここ最近は自分のことを「裏方」「運営側」だと思い込みながら映像を制作していたが、これはちょっと勘違いだったみたいで、実際には映像というのは自分の努力と労力の化身であり、その映像が流れている時間というものは自分がステージに立って演じている時間とほとんど同義であるという感覚を持つことが大切ということが明白になりました。

私はもう6年近く映像を作ってきているのでこの感覚は言語化する必要がなかっただけで、ずっと頭の中では無意識に感じていたモノなのでしょう。
それがこの多忙な1ケ月感の中で今一度「自分の仕事の存在意義」として考え直す良い機会になりました。

 

C4LANのエンディングは、会場にいる参加者みんなで3日間過ごしたこの会場での出来事を振り返って「楽しかった」「良いイベントだった」「また来たい」という気持ちで〆るための重要な要素であり、

結婚式のプロフィールムービーは、式場に来ている「新郎(又は新婦)を良く知らない人」に向けてその人がどんな人生をこれまで歩んできたのかを説明するという重要な要素であり、

ぶいすぽっ!の告知動画は、イベント内容からチーム分け紹介、キャンペーンまで、ファンが知って得する情報をテンポ良く伝えるという重要な要素であり、

工場の紹介動画は、「どんな場所で何を作っているのか」という情報を会社の外部にいかに良く見せられるか、という重要な要素であり、

配信の蓋絵は、配信が始まるまでみんながイライラか、ワクワクしながら嫌でも見ることになる画面という重要な要素である。

 

自分が任されている仕事の「重要感」が上がると、必然的に仕事のモチベーションが上がり、クオリティも上がるのは間違いないので、もし仕事が雑になってきたり、なんだかどうにもやる気が出ない時はこの記事を見て思い出せれば良いかなと思います。

 

「この素晴らしい映像はいったい誰が作ったんだ」と気になって自分から調べる人間はこの世に少数であるという事実を知りながら、多くの人の目に触れる物を作り続けて人々に感動を与える仕事こそ、そういう意味では、The裏方って感じがしてかっこよく見えますね。

 

 

 

 


おまけ(本編)

この記事は高確率で読まれていないとは思いますが私に仕事を与えてくれるだけでなく、考えさせる機会どころか助言まで与えてくれた人たちに多大な感謝を示します。

 

ありがとうございます。